その4 朝夷・安房郡コ-ス 



25番 真野寺{まのじ}

高倉山実相院真野寺
南房総市久保587(旧丸山町)

真言宗

千手観世音菩薩ご詠歌
「夜もすがら まのの入江の松風に おばなぞ見ゆる秋の夕暮」

 2月6日の「真野の大黒」で親しまれている。寺伝によると、奈良時代の神亀2年(725年)に行基{ぎょうき}が開いたとされ、観音堂の本尊は行基作とされている。室町時代初期の作とされるお面をかぶり、ご開帳のときも素顔を拝むことができないことから「覆面{ふくめん}観音」と称されている。その左右には守護神として木造二十八部衆が安置されている。外陣{げじん}にある鎌倉時代の木造大黒天立像は関東地方に残る古像としては最大級のもの。本尊とともに県の指定文化財。この大黒天は平安時代の貞観{じょうかん}2年(860年)、ここを訪れた慈覚大師が参籠中に朝日が昇るなか現れた大黒天を再現したと伝えられていて、「朝日開運大黒天」と呼ばれている。欄間{らんま}には竜が刻まれており、波の伊八と称された初代武志{たけし}伊八郎信由の作である。


26番 小松寺{こまつじ}

檀特山小松寺
南房総市千倉町大貫1057

真言宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「小松寺と きいてたずねきて見れば ふしぎなるものおとおう(乙王)が滝」

 奈良時代の養老2年(718年)に役小角{えんのおずぬ}によって創建されたといわれている。その後延喜{えんぎ}20年(920年)に安房の国司小松民部正壽{まさとし}によって再建された。仁王門を入ると右手に観音堂があり、平安時代に造られた聖{しょう}観音菩薩像が安置されている。弘法大師の作と伝えられている。寺には中世以前の仏像が多く祀られ、鎌倉時代の銅造十一面観音菩薩坐像は国の重要文化財。本尊の木造薬師如来立像は平安時代の作で、県指定文化財。瀬戸浜で魚網にかかったお像だといわれている。梵鐘{ぼんしょう}も南北朝時代の作で、県指定文化財。鐘楼の木鼻彫刻は後藤義光の弟子後藤義信の作。ご詠歌にある乙王{おとおう}とは、小松民部正壽{まさとし}の子千代若丸の従者。寺の再建落慶法要の最中に千代若丸が天狗にさらわれ、平久里郷で変死したのを嘆いて乙王が滝に身を投げたという口伝がある。近頃は秋に紅葉狩りの人々でにぎわっている。平成20年に、霊場景観がちば文化的景観のひとつに選定された。


27番 住吉寺{すみよしでら}

中嶋山住吉寺
南房総市千倉町南朝夷1353

真言宗

正{しょう}観世音菩薩ご詠歌
「中嶋へ まいりて沖をながむれば いつもたえせぬ波のあらさよ」

 観音堂は左手急な石段を登ったところにあり、本尊は行基作と伝えられている。お堂の外陣{げじん}には江戸末期の百観音巡礼奉納額が掲げられている。この高台は古くは海中の岩上にあり、船で参拝したという。海中にあったころは中嶋と称し、その名が残って中嶋観音とよばれている。観音堂の裏側を流れている川までがかつては海岸線だったといわれ、今でも観音堂の下に船を係留{けいりゅう}したといわれる岩がある。境内には土佐與市{よいち}の記念碑がある。紀州印南(和歌山県印南町{いなみちょう})出身の「土佐與市」が、文化10年(1813年)頃に南朝夷へ鰹節の製法を伝えたことで、千倉町が「安房節{あわぶし}」の発祥となった。本堂左手の洞窟の中に二十三夜尊(勢至菩薩)がある。これは明治の頃漁師が沖で漁をしていた時に網にかかり奉納したものである。観音堂の向拝{ごはい}には「後藤利兵衛橘義光70歳」の時の彫刻があり、南房総市の指定文化財になっている。


28番 松野尾寺{まつのおじ}

福聚山松野尾寺(自性院{じしょういん})
館山市神余4612

真言宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「おもくとも つみにはのりの松のおじ 仏をたのむ身こそたのもし」

 松野尾寺は、室町時代の豪族神余{かなまり}景貞{かげさだ}の三回忌に、里人が岩崎台に建てた念仏堂にはじまる。文安5年(1448年)に福寿山満福寺と改め、のち福聚山松野尾寺と改称した。本尊は文殊菩薩。境内に観音堂があった。大正12年の関東大震災で倒壊したため、地区内の来迎{らいこう}寺・安楽院とともに自性{じしょう}院へ合併された。室町時代中頃に神余地蔵畑の岩屋で家臣山下定兼{さだかね}の反逆に遭った神余景貞が自殺したとされ、これを供養した自性房がこの岩屋に自性院を創建したといい、岩屋が元禄大地震で崩れると現在地に移った。本尊は不動明王。平安時代中頃の阿弥陀如来坐像は市指定文化財。阿弥陀如来立像の体内にあった鎌倉時代の水晶製六角五輪塔形舎利塔{しゃりとう}は、全国で数例しかなく市指定文化財。境内にある明治8年(1875年)の出羽三山碑は、四国霊場88か所と西国・秩父・坂東100観音霊場の188か所巡礼をした記念碑になっている。


29番 金蓮院{こんれんいん}

金剛山慈眼{じげん}寺金蓮院
館山市犬石379

真言宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「ずんといり 見あげて見ればひしゃく(飛錫)塚 ごくらくじょうどは犬いしのどう」

本尊:大日如来

 昔、伊豆から来た僧が犬に牽{ひ}かれてこの地へ来たが、犬が離れないので錫杖{しゃくじょう}を振ったところ、犬が消えたといい、そこに観音堂を建てたと言い伝えられている。本堂裏の岩山が錫杖を振ったところで飛錫塚{ひしゃくづか}と呼ばれている。堂は後年現在地へ移された。塚の上には、竜宮から上ったと伝えられる枕字石{ちんじいし}がある。また塚の端は享保{きょうほう}19年(1734年)に一石に一文字ずつ経文を書いて19,500個埋めた経塚で、石書妙経塔がある。本堂の欄間{らんま}には、二間半(14尺)の立派な龍の彫り物があり、二代目武志伊八郎の銘がある。山門を入って左側に庚申塔があり、長須賀の石工鈴木伊三郎が刻んだ肉厚の青面金剛像は力強い。近くの犬石青年館にはかつて犬石権現が祀られていた岩と洞窟がある。鉈切{なたぎり}神社から僧が犬を連れて洞窟に入ったが、犬だけが出て石になった所で、犬石の地名のもとと言われている。


30番 養老寺{ようろうじ}

妙法山観音寺(通称:養老寺)
館山市洲崎1331

真言宗

十一面観世音菩薩ご詠歌
「かんのんへ まいりて沖をながむれば のぼりくだりのふねぞ見えける」

 洲崎灯台を過ぎると左手に御手洗{みたらし}山が道際までせまってくる。中腹には洲崎神社が望め神社のすぐ手前が観音寺で、子育て保育園が併設されている。ここ洲崎{すのさき}は東京湾の入口で、内房と外房の境目でもある。当寺の開祖は役行者{えんのぎょうじゃ}とされ、養老元年(717年)の創建。本尊の十一面観世音菩薩は洲崎神社の本地仏{ほんじぶつ}であり、神社の社僧も勤めていた。堂の左奥には役行者の霊力で湧いた独鈷水{とっこすい}があり涸{か}れることがないという。右上の岩屋には役行者の石像が祀られ、里見八犬伝では役行者の化身が伏姫{ふせひめ}に仁義礼智忠信孝悌の文字が浮かぶ数珠を授ける名場面に登場する。観音堂の向拝{ごはい}彫刻は後藤義光の師匠・後藤三四郎恒俊{つねとし}の作。境内にある一本すすきや綿鍋{わたなべ}家伝説など、洲崎神社も含めて頼朝伝説が数多く残されている。


31番 長福寺{ちょうふくじ}

普門山長福寺
館山市館山928

真言宗

千手観世音菩薩ご詠歌
「かんのんへ まいりて沖をながむれば 岸うつなみにふねぞうかぶる」

 城山公園の北にある小丘「北下台{ぼっけだい}」に、神亀{じんき}2年(725年)行基が千手観音菩薩像を安置したことに始まるという。元和・寛永・元禄の震災は免れたというが、関東大震災で倒壊し、再建されたものの昭和39年に館山仲町の長福寺へ移された。北下台の墓所中央には「館山観音御堂旧址」の碑が残されている。長福寺の本尊は不動明王。里見氏から慶長年間に真倉{さなぐら}村で6石の地を与えられた。寺伝では行基の創建で、中興開山は伝忠という。観音堂右の墓地には館山藩の御典医「宮川元斎(明治33年没)」の墓がある。観音堂裏の永代供養墓の中には「寄子{よりこ}萬霊塔{ばんれいとう}」がある。これは明治維新の戊辰戦争の際、箱根山崎の戦いに加わり異郷の地で亡くなった農兵たちの慰霊碑で、塔の裏には「鐘の音{ね}の落葉さみしき夕べかな」の句が詠まれている。


32番 小網寺{こあみじ}

金剛山小網寺
館山市出野尾85

真言宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「はるばると のぼりてみれば小あみ山 かねのひびきにあ(明)くるまつかぜ」

 県道86号線、岡田口バス停から暫{しばら}く歩いて小網坂と呼ばれる急坂を登ると小網寺である。小網坂右手の谷は法華谷{ほっけやつ}と呼ばれる行場{ぎょうば}で、弘法大師も修業したと伝わる「やぐら」がある。仁王門をくぐり苔むした石段の上が観音堂で、聖観音像(市指定文化財)が祀られている。観音堂の左側には、お堂が元禄大地震の倒壊から復興なった記念に建てられた宝篋印塔{ほうきょういんとう}がある。下の本堂(本尊:不動明王)向拝{ごはい}にある安房の名工後藤義光が刻んだ彫刻は見事。小網寺は古くは大荘厳寺{だいしょうごんじ}と呼ばれ和銅3年(710年)の創建、密教道場として安房の高野山といわれるほど栄えた。鐘楼{しょうろう}の梵鐘は国の重要文化財で鎌倉の名工物部{もののべの}国光{くにみつ}の作。伝説に、この鐘は海中から出現して平砂浦{へいさうら}に打揚げられ、撞{つ}いてみると響きが「小網寺へ」と聞こえたので寄進したとされ、平砂浦の布沼{めぬま}には鐘搗{かねつき}塚という地名があると言う。鐘の音はご詠歌にも詠まれている。


33番 観音院{かんのんいん}

杉本山観音院
館山市西長田372

真言宗

聖観世音菩薩ご詠歌
「ふるさとを はるばるここに杉本へ わがゆくさきはちかくなるらん」

 行基が聖観音菩薩像を刻み楠の祠{ほこら}に安置した事にはじまるという。後に天平{てんぴょう}6年(734年)慈覚大師が堂宇を造営した。この観音像とお前立{まえだち}は平安時代の作で藤原様式の古い仏像である。天正時代に堂守が鎌倉で処罰されようとした時、聖観世音菩薩が助けてくれたという霊験{れいげん}が伝えられ「身代わり観音」と云{い}われている。観音堂向拝{ごはい}の龍は明治28年後藤義光の作で、飛天は明治34年のものである。寺号額は文化年間の浩然{こうねん}(下野{しもつけ}の国出流{いずる}観音満願寺の僧)の書。境内には室町時代の五輪塔や宝篋印塔{ほうきょういんとう}の笠があるほか、天保4年(1833年)の石灯籠、享和2年(1802年)の光明真言塔(宝篋印塔)、享保15年の御詠歌額がある。慶長11年(1606年)に里見忠義から2石の寺領が寄進され、その時の朱印状も残されている。


番外 震災観音堂{しんさいかんのんどう}

震災観音堂
館山市北条2549-4

曹洞宗慈恩院境外仏堂

聖観世音菩薩ご詠歌
「あわやとて たつまなきまにきゆるみは おなじはちす(蓮)の花のうてな(台)に」

 関東大震災で未曽有{みぞう}の被害を受けた安房郡内では1206人の犠牲者を出した。死者の霊を慰めるために延命寺の佐々木珍龍{ちんりゅう}禅師が北条六軒町に創建した堂で、戦後現在地に移された。本尊は佐渡の仏師親松佛巌{ちかまつぶつがん}翁作。ご詠歌は震災で外孫を亡くした北条在住の万里小路通房{までのこうじみちふさ}伯爵が詠み揮毫{きごう}した。境内の石灯籠は北条の富士浅間(仙元)講中の百余名が慶応2年(1866年)に寄進したもの。海運事業の発展に寄与した小原謹一郎の顕彰碑もある。謹一郎は私財を投じて館山の近代化に寄与した人物で、その父善兵衛は幕末から明治の初めまでに汐入川を改修し、右岸の沼地を埋め立てて水田とし「小原新田」と呼ばれていた。